心の傷を自信や強さの糧にするLady Gagaの生き方。

BY FEEL ANYWHERE
2022.12.19

2008年8月に1stアルバム『The Fame』でデビューをすると世界中を席巻、圧倒的な歌唱力と革新的なパフォーマンスの数々、そして超絶独創的なファッションスタイルで世界的な人気を博し、21世紀における唯一無二のアイコンとなった〈レディー・ガガ〉。グラミー賞は13回受賞、シングルとアルバムの世界総売り上げは1億7,000万枚以上。2010年代に入ってからは『アリー/スター誕生』『ハウス・オブ・グッチ』など女優としても大きな成功を果たしている。

そんなレディー・ガガに対してどんなイメージがあるだろうか。彼女自身がそう呼ぶように「世界で一番強く、自信に溢れる女性」という言葉がピッタリなのかもしれない。しかし順風満帆に見え、神々しささえ感じる存在のレディー・ガガは、壮絶な人生経験を持ち、いまでも自身に降りかかる困難と闘い続けるアーティストでもあるのだ。今回のアーティクルでは、そんなレディー・ガガの知られざるサイドストーリーを少しでも知ってもらえればと思う。

ガガ伝説のはじまり。

レディー・ガガはその奇抜さから、デビュー当初はいわゆる“色物”と見られていたのも事実で、最初から期待をされているわけではなかったようだ。アルバム『The Fame』のリリース4ヶ月前に発表された1stシングル「Just Dance」は、レーベルサイドの予算は大きなものではなかったようで、MVをよく見てみるとインディーズ的でローファイな内容になっている。しかし「Just Dance」はアメリカ、カナダ、オーストラリア、アイルランド、イギリスのチャートで1位を記録。そして日本でも2位になるなど、世界同時多発的な大ヒットになっていった。

Lady Gaga – Just Dance (Official Music Video) ft. Colby O’Donis

そして2009年3月から『The Fame』 をサポートする形で、初めてのワールドツアー「The Fame Ball Tour」 がスタート。北米、ヨーロッパ、オセアニア、アジア各地のライブハウス、コンサートホール、音楽フェスなど、会場に捉われることなく行われたパフォーマンスに世界中は熱狂し夢中になっていった。このツアーから早くもレディー・ガガは本領を発揮。パフォーマンス中に完全にプラスチックの泡で作られた革新的なドレスや、露出度の高い衣装など複数の衣装変更が行われ観客を魅了したのはもちろん、その高いステージプロデュース力は音楽批評家から高い評価を得ることになった。

Lady Gaga – The Fame Ball Tour (30-minute Special)
※日本への初来日は2009年6月8日。東京の渋谷AX。翌年のサマーソニックでは会場入場規制が行われるほどの熱狂ぶりだった。「Poker Face」のステージは圧巻。

この初めてのワールドツアーでレディー・ガガの存在は決定的になる。そしてこれ以降、華やかであり、時にはゴシップでも話題となるガガ伝説が始まっていった。

生まれながらのエンターテイナー レディー・ガガの誕生。

※2008年のデビュー当時、世界中で話題となったリボンモチーフヘアのガガ。
Photo:Charles Eshelman/FilmMagic

レディー・ガガは間違いなく21世紀初頭に現れたモンスターだ。彼女が登場する前と後では、世界中の音楽エンタテインメント界の景色は違っていたのではないだろうか。しかし彼女は『アメリカズ・ゴット・タレント』のようなオーディション番組で優勝したわけでもなければ、モデルのオーディションで輝く存在だったわけでもない。ではレディー・ガガはどのようにして生まれたのだろう。

その片鱗は4才の頃に遡る。ガガはイタリア系アメリカ人の両親のもと、1986年3月28日にステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタ(以下、デビュー以前のレディー・ガガはステファニー、デビュー以降はガガとして表記)として生を受けた。父親がインターネット会社を経営するジャーマノッタ家は裕福な家庭で、ステファニーは幼い頃より両親からたっぷりの愛情を注がれ、なにひとつ不自由なく育ってきた。幼いながらも聴き覚えでピアノを弾き始めたり、父親の影響で聴いていたピンク・フロイドの「マネー」に触発され作曲をするなどして両親を驚かせていた。また幼稚園の学芸会で雄ヤギの役柄を任せられると、アルミホイルとハンガーで大きな角を自ら作って派手な演技をしてみせたり、高級レストランのテーブルの周りに居合わせた人たちを音楽とパフォーマンスで喜ばせていた少女だった。

そんな自分の中にあるエンターテイナー性を誰よりも気づいていたのはステファニー自身だったし、両親はその支援者だった。10代になるとジャンルや時代に関係のない組み合わせを取り入れたファションで周囲を驚かせたり、母親に連れていかれたジャズクラブのオープンマイクのステージで歌うなど、パフォーマーとして人を驚かす喜びをますます体感するようになっていく。

“私は生まれついてのエンターテイナー
子供の頃もいまも
芝居の大好きな役者なの”

■2010年 シンコーミュージック『レディー・ガガ ルッキング・フォー・フェイム』
ポール・レスター 著 / 堂田和美 訳 より

この言葉通りに、この頃に未来の〈レディー・ガガ〉の種は撒かれ、少しずつ芽生え始めていたのだ。

ガガを生み出した学生時代のいじめと疎外感。

ステファニーの通っていたハイスクールは、ヒルトン姉妹や元駐日大使のキャロライン・ケネディも通っていた教育水準の高い学校だったが、彼女はとても勤勉でオールAをとるなど非常に優秀な生徒だった。しかし、白人の中では被差別層だったイタリア系出身だったこともあり、周囲からは距離を置かれるなどハイスクールの中では浮いていた存在だった。またステファニーの個性である奇抜なファッションや、大胆な行動はロッカーに悪口が書かれたり、廊下で「売女」と罵られたりするなどいじめの標的にもなっていった。また同じクラスの生徒と連んでいた男子たちに、街のゴミ箱に投げ込まれ嘲笑されるなどの酷く辛い経験もしている。

ステファニーは自分に自信が持てなくなり、醜い人間にさえ感じ、自分に芽生えつつあった個性さえも抑圧していくようになる。そして周囲に同調せざるを得なかったこの経験こそが、ステファニーが〈レディー・ガガ〉に生まれ変わろうとしたきっかけになっていたのかもしれない。アルバム『Born This Way』(2011)のリリースタイミングで、ガガはこう語っている。

“違いをもたらしたい。
かわいい格好でステージに立って
これまでと同じようなものを
歌うなんてことしたくない。
それより「Judas」みたいな曲を作って
裏切りや許し
理解されないことについて話したい”

■『The Guardian』インタビューより

Lady Gaga – Judas (Official Music Video)

その後ステファニーは超難関校であるニューヨーク大学芸術学部に史上20人目の早期入学を果たすと、彼女は学ぶことにどっぷりと向き合っていく。午前は朝からダンスレッスンを行い、午後は演劇と歌に励み、そのあとに文学と現代美術の講義を受ける勤勉すぎる学生だったようだ。おそらくこの頃の学びが、ガガとしての音楽やエンタテインメント性に溢れる最初の素養となっていったのだろう。同時にニューヨーク各地でライブ活動も行うなどパフォーマーとしての場所も広げていった。もっともこの頃は、ピアノを弾く歌唱力のあるシンガーソングライターだった。

Vintage Lady Gaga Live at NYU – Captivated & Electric Kiss
※大学生時代、ピアノで歌うステファニーの貴重な映像。

しかし彼女のパフォーマンスに対して、大学の講師や同級生たちが既存概念のなかで批評することに息苦しさも感じ始めていた。そして教育から学ぶものはこれ以上ないと感じたステファニーは、自分が理想とする音楽活動をするために大学を退学する。言い換えれば「私はやりたいことをやるだけ」という選択だった。そしてこれまで絶大な支援者だった両親からも離れ、自分の力だけで音楽に向き合う道を歩き始める。

ドラッグに溺れた日々から生まれたガガの名曲。

鎖がとれたように19歳のステファニーの行動は加速し、日々の生活は大きく変化していく。ピアノを弾き語るステージをする傍らで、生活費を稼ぐために夜はダンサーとしてバーレスク・バーで働き、時にはストリッパーのような仕事をこなしていく毎日。そこで出会ったのがDJのレディー・スターライトだった。彼女とともにThe Starlight Reviewを結成し、露出度の高い服装でアート・パフォーマンスを繰り広げる別の顔も見せるようになる。

※2007年、ニューヨークのSlipper Roomにてパフォーマンスを披露したガガとレディー・スターライト。
Photo:Veronica Ibarra/FilmMagic

そんなある日、バラードの新曲を披露するためステージで開始を待っていたステファニーだったが、客たちは好き放題に騒いでいて演奏を始める雰囲気ではなかった。そこで彼女は突然服を脱ぎ捨て下着姿でピアノの前に座るという行動にでる。すると会場は静まり返り、彼女を凝視する以外ない状況を作り出した。その瞬間にステファニーは、確信を持ってどんなエンターテイナーになりたいのか自覚したのだという。

そんな日々の中で彼女が次に選んでしまったのはドラッグだった。憧れていたアーティストのアンディ・ウォーホルやミック・ジャガーなどと同じように、ドラッグを常習することがクリエイティビティを高い意識に昇華できる方法と考えていたのだ。そしてニューヨークの狭い部屋でドラッグと音楽制作に浸りっきりの生活になるのに時間はかからなかった。

しかしステファニーはドラッグに溺れながらも、デモテープを作りステージに立ち続け、アーティストとしての動きを止めることはなかった。そんな中で生まれたのが、のちにデビューアルバム『The Fame』に収録された「Beautiful, Dirty, Rich」だ。この曲を作った時は「ドラッグをガンガンにやっていた頃だと、ガガは雑誌『ローリング・ストーン』で明かしている。

Lady Gaga / Lady Starlight – Beautiful, Dirty, Rich (2007)
※相棒のレディー・スターライトと「Beautiful, Dirty, Rich」をパフォーマンスするガガ。レディー・スターライトはその後もDJとして活躍。 2010年にはガガがトリを勤めた音楽フェスLollapaloozaに、スペシャルゲストとして登場。共演しファンを大いに沸かせた。

ステファニーの生活は肯定されるものではないが、ポップ、ロック、バラード、バーレスクと多岐にわたるパフォーマンスと才能が知られるようになり、遂にディスティニーズ・チャイルドやブリトニー・スピアーズなどを手がけていたプロデューサーである、ロブ・フリーサの目に留まることになる。そしてステファニーは本格的にアーティストになるためにドラッグには二度と手を出さないと決意し、〈レディー・ガガ〉としての本格的デビューに向けて歩み始めることとなる。

壮絶な過去と現在を闘い続けるガガ。

ガガを知る上では、19歳のステファニーを襲った悲しい出来事も知る必要がある。それは彼女が本格的な音楽活動をする以前に出会ったある音楽プロデューサーから日常的に性的暴力を受け、妊娠させられてしまうという壮絶な体験だ。これ以降、ステファニーは精神と身体のバランスが崩れはじめていく。彼女が酒やドラッグに溺れていったのも、このことが原因だったとのちに告白している。この出来事は時間が経過しても癒えることはなく、原因不明の身体の痛みや、鬱や不安障害などが彼女を慢性的に襲い始める。症状に耐えかねて病院へ行くと、診断された結果はPTSDと線維筋痛症だった。

Lady Gaga – Swine (Live at iTunes Festival 2013)
※この壮絶な出来事が、2013年に発表した「Swine」のインスピレーションになったとラジオ番組『ハワード・スターン・ショー』でガガは話した。 Swineとは「卑劣な人間」「ブタ野郎」という意味で、歌詞全編を通して「お前はブタ野郎だ」と加害者を激しく罵っている。

“私が痛みを感じる時の感覚は
自分が性的暴力を受けた後の感覚なの。
何度もMRI検査やCT検査を受けてきた。
検査では何も見つからなくても
身体が覚えてる。
何も感じられなかった。
わたしはバラバラだった。
脳がオフラインになってしまうような感覚。
誰もパニックになっていないのに
どうして自分だけが
ものすごく神経過敏になっているのか
分からないの”

■2021年 Apple TV+ドキュメンタリー『The Me You Can’t See』より

そして華々しくデビューしたガガにさらに追い討ちをかけたのが、2013年の股関節骨折だった。それは25セント硬貨ほどの大きな穴が股関節に開き、軟骨が反対側にぶら下がっているほどの思いもよらない身体の破損だった。医師に「あと、もう1回コンサートをしていたら、きっと人工股関節置換手術が必要になっていた」と告げられ、彼女は手術を決断し最悪の事態を回避した。しかし、この時の手術の後遺症も彼女を苦しめることになる。

2018年にアルバム『Joanne』を携えて開催された『Joanne World Tour』中に線維筋痛症が発症する。映画『Five Foot Two』では、最高のパフォーマンスをしようとしながらも痛みに苦しみ、泣き出すガガの姿を映し出している。何事にもびくともしないと思われていた〈レディー・ガガ〉は満身創痍だった。その後に容体は悪化、遂に残る公演を全てキャンセルすることになってしまう。

心の傷に触れ、そこから生み落とされるガガの音楽と行動。

2015年に発表された「Til It Happens To You」は、アメリカの大学で日常的に起きている性的暴力と隠蔽をテーマにしたドキュメンタリー映画『ザ・ハンティング・グラウンド』の主題歌として書かれたもので、性的暴力を受けた女性たちに向けたメッセージソングになっている。ただしその内容は、癒えることのない傷を絶望的なまでにリアリティのある言葉で綴られている。彼女が身を持って体験したからこそ歌える曲だ。

“曲を作るには
心の傷に触れないとね
毎回、心が抉られる”

■2018年 映画『Five Foot Two』のインタビューより

彼女の言葉通り「Swine」も「Til It Happens To You」もガガの大きな傷から生まれた曲だ。そればかりでなく、今回紹介してきた幼い頃からの体験すべてが骨となり血となり〈レディー・ガガ〉を生み出し、そして進化をさせ続けてきたのだと思える。

そして彼女は音楽としてアウトプットするだけでなく、様々な具体的なアクションも起こしている。「Til It Happens To You」で第88回アカデミー賞歌曲賞にノミネートされたガガは、ピアノに合わせて込み上がる感情を爆発させるかのように歌い、性的暴力の被害に遭った数十人の女性や男性たちもステージに登壇させ、一緒に「あなたが悪いんじゃない」「くじけない」といったメッセージが書かれた腕を掲げて連帯を示す行動を起こした。また副大統領時代のバイデンとともに性的暴力撲滅を訴えるビデオメッセージを録画しツイッターに投稿、被害者を支援する組織「itsonus.org」の活動に協力する意思も表明している。

Lady Gaga – Till It Happens To You, Live Oscar Performance 2016

また2011年に心を痛める出来事が起きていた。ガガの大ファンであった14歳のジェイミー・ロードマイヤーがゲイであることをカミングアウトし、そのことが原因で受けたいじめを苦に自ら命を絶ってしまう。ジェイミーはいじめを受けながらも「Born This Way」をよく口ずさみ、多くのガガの曲により救いや幸福を感じていることなどを生前に話していたという。

自身がいじめを受けた経験がベースとなっている「Born This Way」で、年齢、性別、人種などに囚われることなく〈ありのままの自分で生きよう〉とガガは歌っている、そして〈ゲイでもストレートでもバイセクシャルでも、レズビアンでもトランスジェンダーでもあなたは間違っていない〉と多様性のアンセムとして世界中の人々に勇気や希望を与えた楽曲だった。間違いなくジェイミーもその一人だったはずだ。

レディー・ガガ「Hair」ゲイでいじめられ自殺したジェイミー君に〜Lady Gaga

ガガはひどく悲しみ、そして強い怒りを感じた。それを行動に移した。ジェイミーの死から1週間後、ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナで行われた「iHeartRadioミュージック・フェスティバル」で、スクリーンにジェイミーの写真を映し出し、自身の楽曲「Hair」を捧げた。そして、こんなメッセージを贈っている。

“ジェイミー
あなたは空から私たちを見てるのよね。
あなたは犠牲者じゃないわ。
私たち全員への教訓よ”

そればかりか、当時のオバマ大統領に直接会って「いじめは違法にすべきだ」 と訴えかけるというアクションも起こしていく。そしてこの翌年、ガガは母親とともに「Born This Way」のタイトルをそのまま冠した非営利組織「ボーン・ディス・ウェイ財団」を設立。いじめの撲滅のみならずLGBTQなどあらゆる差別に向き合いサポートを整え、マイノリティを持つ若者たちを勇気づける具体的な行動もスタートさせている。ガガは自身と同じように傷を負った人たちに対して、音楽だけではなく具体的にしっかり手を繋ぎあう連帯できる世界を目指そうとしているのだ。

奇抜なファッションや大胆な衣装で話題を振り撒き、常に私たちを驚かせて続けてきたガガ。世界の頂点に立つスーパー・ウーマンというパブリックなイメージだが、その裏側には様々なストーリーがあった。「私は世界で一番強く、自信に溢れる女性」というガガの言葉は、単に成功者となった〈レディー・ガガ〉を言っているわけではないのだろう。それは常に身体や精神と闘い、それを乗り越え続けなければいけない自身を鼓舞する言葉のように聞こえてくる。改めてガガを捉えると、苦悩し傷を負いながらも〈レディー・ガガ〉に変身し、私たちに勇気や希望を見せてくれるヒーローのように思えてくるのだ。

ガガは最近も素晴らしいプレゼントを贈ってくれた。2020年3月にアメリカから全世界に配信されたスペシャル番組「One World: Together At Home」を知っている人も多いと思うが、COVID-19に向き合い活動を行っている医療従事者を称え、支援することを目的とするこのイベントは、実はガガのキュレーションによるものだったのだ。ポール・マッカートニー、エルトン・ジョン、セリーヌ・ディオン、 ビリー・アイリッシュ、カミラ・カベロ、アリシア・キーズなど数えきれないアーティストたちが、自宅やスタジオから音楽を通じて世界を繋いだ。この歴史的イベントは多くの人が視聴し、元気づけられたのではないだろうか。

Lady Gaga performs “Smile” | One World: Together At Home

「One World: Together At Home」で、ガガはナット・キング・コールの「Smile」を自然体の素顔姿でピアノを弾き、歌ってくれた。世界中が重苦しい空気に覆われていたこの時期、ガガの「Smile」は私たちの気持ちを確実に優しくしてくれた。その姿こそが現在進行形の〈レディー・ガガ〉であり、ニューヨークのクラブでピアノを弾いていた頃のステファニーであるようにも思える。

ガガはこれからも
苦しい時が続くかもしれない。
ガガに愛する人ができ
安息の日々を迎える時もあるかもしれない。

いずれにせよ、これからも〈レディー・ガガ〉が様々なことを飲み込みながらパワーをさらに増し、私たちのヒーローであり続けていて欲しい。

※2022年現在のレディー・ガガ。苦悩し傷を負いながらも、強く生きる姿は女神のように美しい。
Photo:Rich Fury/Getty Images for The Recording Academy

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