ヒップホップを世界的ムーブメントにしたRUN-D.M.C.が起こした2つの革命。

BY FEEL ANYWHERE
2022.08.10

ラップとロックを融合した先駆け的存在として知られ、現代に続くヒップホップ・シーンのパイオニアとなっているRUN-D.M.C.(ラン・ディーエムシー)。ヒップホップ・アーティストとして初めてのゴールドディスクの獲得や、スタジアムライヴを成功させるなど、ヒップホップ・アーティストとしては初めての偉業を成し遂げたRUN-D.M.C.は「ヒップホップにおけるビートルズ」とも形容されている。

Photo:Michael Ochs Archives/Getty Images

また、そのファッションスタイルも革新的だった。カンゴール・ハット、ゴールド・チェーン、セットアップ、カザールのサングラス、そして紐無しadidasスーパースターというニューヨークのアンダーグラウンド界隈で定着し始めていたファッション・スタイルで登場した RUN-D.M.C. は、世界で熱狂的なadidasブームが巻き起こるきっかけを作った重要アーティストなのだ。新たなヒップホップ・サウンドを作り、音楽のみならず、ヒップホップ・カルチャーの歴史を変えたと言っても過言ではない。しかし2002年にグループのキーマンだったジャム・マスター・ジェイが射殺されるという衝撃的な事件が起こり、RUN-D.M.C. としてのグループ活動は終わっている。1980年代から2000年代の初めにかけ、ヒップホップ・シーンを駆け抜けた RUN-D.M.C. 。今回のコラムでは、そんな彼らの残した「音楽とファッション」というふたつの革命的な出来事にスポットを当てるとともに、ヒップホップの歴史を振り返っていきたい。

ヒップホップのはじまり。

RUN-D.M.C. のことを語る前にヒップホップについて簡単におさらいしておこう。ヒップホップの歴史の始まりの場所はニューヨークのサウスブロンクス。ヒップホップ用語でゲットーと呼ばれる地域で、貧困のため古いボロボロの建物が並び、ドラッグにおぼれる人やストリート・ギャングが多い。1970年代当時、世間ではディスコが大ブームだったが、ゲットーの貧困な若者達は遊びに行く金がなかったので、公園や倉庫などに集まりパーティーをするようになる。家から運んできたターン・テーブルを、外灯のコンセントに差込み、DJがレコードを回す中で若者たちはダンスに興じたのである。こういった動きはブロック・パーティーと呼ばれるようになっていく。

Hip Hop Party at Bronx River Center, 1980s New York
※1980年代当時のサウスブロンクスでのブロックパーティがよくわかる貴重な映像。

そして現代に繋がるヒップホップの原点が、DJのクール・ハークが開催したブロック・パーティーだと言われている。当時のパーティーといえばディスコ音楽が定番で、DJのテクニックとしてスクラッチなどは存在せず、ただ単にレコードを選曲して流すだけのものだった。そのDJ文化に革命を起こしたのがクール・ハーク。彼が開いたパーティーでの音楽はディスコではなく、爆音のソウルやファンクといったブラックミュージックだった。そしてダンスをする人たちが盛り上がる時間を長くするために、曲の間奏部分(ブレイク)を2枚のターンテーブルを用いて永遠にループさせるブレイクビーツという手法を生み出していった。そのブロック・パーティーが開催されたのが、1973年の8月11日だったことから、この日を「ヒップホップ記念日(National Hip Hop Celebration Day)」とすることがアメリカ上院全会一致で昨年制定されている。

またヒップホップはアメリカのギャング文化とも関係があると言われ、銃や暴力による抗争の代わりとしてブレイクダンスやラップで優劣を争うようになっていった。

Kool Herc Old School
※サウス・ブロンクスの街の様子とともに、当時のクール・ハークを紹介する貴重な映像。

クール・ハークのパーティーが人気となると、DJたちは競いあうように新しいDJ技術を生み出していく。スクラッチ・プレイが生まれ、パーティーの進行役だったMCはリリックを歌うラッパーへと変化していく。そしてシュガーヒル・ギャングなどのヒップホップ・グループが登場。彼らの「Rapper’s Delight」は、アメリカのラジオ番組「American Top 40」でヒップホップのシングルとして初めてランクイン、セールス的にもアメリカでトップ40、UKでトップ3、カナダでトップ1を記録し、幅広い層にヒップホップを知らしめ、ヒップホップ・ミュージックを世界で初めて商業的に成功させた楽曲となり、社会的認知も高めていった。そんな背景がある中で、RUN-D.M.C. がまったく新しい概念のヒップホップ・ミュージックを生み出していく。

The Sugarhill Gang – Rapper’s Delight (Official Video)

RUN-D.M.C. が生み出した新しいヒップホップ・サウンド。

RUN-D.M.C. はラッパーのジョゼフ・シモンズ(以下、Run)とダリル・マクダニエルズ(以下、D.M.C.) 、そしてDJのジャムマスター・ジェイ(以下、ジャムマスター)の3人で1983年に結成されたヒップホップ・グループだ。当時のヒップホップ界隈のラッパーたちのほとんどの選曲は、過去のR&Bやソウルミュージックの中からセレクトされた焼き直し的なものばかりだったが、彼らはそんな旧来的な方法とは違った新しいヒップホップ・サウンドを作ろうという高いモチベーションを持っていた。

“俺たちには、どんなレコードにしたいかアイディアがあった。たとえばシュガーヒル・ギャングがやっていたことだったり、典型的なR&Bチャートの音楽にラップを乗せることはしたくなかった。おなじみの曲を頂戴してレコードを作ることはしたくなかったんだ”
※Red Bull Music AcademyでのD.M.C.のインタビューから(2014年12月)

3人は同じ地元のクイーンズに住んでいた音楽プロデューサーであるラリー・スミス(以下、ラリー)と出会い、デビューシングル「It’s Like That」(1983)をレコーディング。音数の少ないドラム・トラックに、シンセサイザーのスタブ音とホワイトノイズをミニマルなトラックに仕立てた斬新な構成に、RUNとD.M.C.のラップがマッチした新しいヒップホップ・サウンドを生み出した。

しかし当時のラジオ局はヒップホップを放送することに抵抗があった時代。そんな中でもニューヨークのラジオ局「Kiss FM」でこの曲がかかると「It’s Like That」は話題となり、他のラジオ局も追随。やがて「It’s Like That」は全米R&Bのチャートで15位まで上昇し、25万枚以上のセールスを記録。またイギリスでは、デビュー曲にして全英チャート1位を獲得した。社会に蔓延する欲求不満を歌いながらも、現実的な視点で「そんなもんだ、それが現実だ」というリフレインされるリリックは、社会に不満を持つ若者たちの心を一気に掴んでいった。

RUN-D.M.C. – It’s Like That (Krush Groove 1985)
※映画『クラッシュ・グルーブ』(1985)で「It’s Like That」をパフォーマンスするRUN-D.M.C.。ヒップホップ専門レーベル「デフ・ジャム・レコード」に纏わる実話に基づくストーリー。

音楽プロデューサーのラリーは、かねてからハード・ロックとヒップホップの混成したサウンドを目指していて、それは新しいヒップホップ・スタイルを追求していた RUN-D.M.C. の3人の思想とマッチしていく。3人はラリーとバイブスを共有し、それぞれの役割の中でいままでになかったヒップホップ・サウンドを作り始める。特にジェイはいつもラリーと時間を共にして機材や録音技術などを学んでいったという。そんな経緯を経て生まれた楽曲が「ROCK BOX」だ。「ROCK BOX」は、リード・ギターのフレーズを演奏したことで、ヒップホップとロックが交わる初めてのナンバーとなった。また「ROCK BOX」のMVは、MTVで放送された初のラップ・パフォーマンスのMVであったことにも注目したい。「他のバンドなんかより、俺達のDJはイケてる!」というRunの叫びは、まるでヒップホップがロックンロールを超えて、新しいサウンドだと言っているかのようだ。

RUN-D.M.C. – Rock Box (Official Video)
※ヒップホップとしては初めてロック調のギターリフやソロを入れた、革新的な曲であるとされている。

そして1stアルバム『RUN-D.M.C.』(1984)をリリースすると、ミリオン・ヒットを記録し、ヒップホップのアルバムとして初のゴールドディスクを獲得する快挙を成し遂げ、アンダーグラウンドだったヒップホップが一気にメジャーシーンへと飛躍していった。

ヒップホップとロックが融合した歴史的な事件。

セカンド・アルバム『KING OF ROCK』。
(Jacket Photo)

2ndアルバム『KING OF ROCK』 (1985)は、さらにロック調のサウンドが広がったアルバムだ。自分たちを「ロックの王様」と言ってのけるリリックは物議を呼んだが、そのタイトルに象徴されるように、ヒップホップとロックという境界をぶち壊すかの如く、大胆にサンプリングされたハード・ロック調のギターや、重量感のあるドラム・ビートを導入したナンバーを収録している。この革新性に満ちたアルバムはセールス面でもヒップホップ・アルバムとして初めて100万枚セールスを超えるプラチナアルバムとなった。また、後に登場するパブリック・エナミーやビースティ・ボーイズなどのヒップホップ・グループに大きな影響を与えている。

RUN-D.M.C. – King Of Rock (Official Video)
※ロックとヒップホップ双方のファンを引きつけた「King Of Rock」。

そして1986年には、その後の音楽史を揺るがした「Walk This Way」を発表する。この曲のイントロ4小節は、誰もが耳にしたことのあるエアロスミスの名曲ナンバーだ。この楽曲はそれまでと違い原曲をサンプリングすることなく、エアロスミスのスティーヴン・タイラーとジョー・ペリーがレコーディングに参加する形で行われた。MVの冒頭では、とあるスタジオで壁を隔ててライヴ・バトルを始めたRUN-D.M.C.とエアロスミス。やがて壁は壊されセッションが始まり、たくさんのオーディエンスのいるライブハウスでの競演が始まっていく。そしてスティーヴン・タイラーがギターを降ろし、RunとD.M.C.と共にダンスステップを踏み始めていくのである。ヒップホップとロックの境界が明確に無くなり、 RUN-D.M.C. が目指してきたヒップホップとロックが完全に融合された歴史的なシーンに全ての音楽ファンが興奮した。

RUN-D.M.C. – Walk This Way (Official HD Video) ft. Aerosmith

一方でRunとD.M.C.は当初はこのコラボレーションに乗り気ではなかったという。「Walk This Way」のイントロのギターリフは以前から定番ブレイクとして取り入れていて、当初はこの部分だけをサンプリングしようと考えていたらしい。実は楽曲そのものを聴いたことがなかったと明かしている。

D.M.C.はこの時のことをこう振り返っている。

“このレコードは、歴史に残るものとなった。だから俺は毎回学校とかで講演するとき、学生たちにこのように伝える。新しいことにトライしよう。新しいことに寛容でいよう。自分の人生を変えるだけではなく、世界を変える可能性があるんだ。ってね。もし俺らがサンプルして普通にラップをしていたら、ただの良い曲で終わっていただろう。エアロスミスと一緒にやったから、歴史に残る曲になったんだ”
※「Loudwire」でのD.M.C.のインタビューから(2016年11月)

「Walk This Way」は全米チャート4位を記録するほか、世界中のセールスチャートのTOP10入りをするなど、 RUN-D.M.C.のヒップホップ・サウンドは名実ともにグローバル・スタンダードになっていく。


世界的なadidasムーブメントを作ったRUN-D.M.C.。

RUN-D.M.C. は新しいヒップホップの音楽性を生み出しただけではなく、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持っていた。黒のカンガルーハット、3本のストライプの入ったadidasのジャージにダボダボのワイドパンツを併せ、それに彼らはadidasのスーパースターを紐なしでクールに履きこなしていた。これは初期のヒップホップ・アーティストたちから受け継がれた重要なストリートファッションだったが、RUN-D.M.C. はadidasファッションをスタイリッシュに取り入れステージにもそのままの姿で登場するなど、それまでの常識にはなかったことをやってのけた点が、それまでのアーティストとは違っていた。やがて〈RUN-D.M.C.=adidas〉 というアイコン化に繋がりadidasブームを作っていく。

“俺たちには『衣装』はなかった。そのままの服装でステージに上がったのさ。そのことが、他のラップグループよりもファンと密接な関係を築いた。ファンにとってステージの俺たちは『鏡に映った自分たち』を見ているようなものだったからさ”

このメッセージは多くの若者たちの共感を呼ぶ。そして決定的だったのが、3rdアルバム『Raising Hell』(1986)に収録された「My Adidas」だ。 リリックにadidas愛が溢れたこの曲は大ヒットし、世界的なadidasブームに繋がっていく。

RUN-D.M.C. – My Adidas
※クラシックなビートとクラッシックなライムで、adidasのシューズへの愛が語られている。

またadidasに関してはこんなエピソードも。adidasの関係者を招待していたRUN-D.M.C. のライヴで「My Adidas」を歌う前にオーディエンスにこう呼びかけた。

“adidasを脱いで、頭上にかかげてくれ”

そうすると客は靴を脱ぎ、客席全体が三本線の入ったadidasを掲げる光景で埋め尽くされたのだ。これがきっかけとなり、それまでアスリートとしかスポンサー契約をしていなかったadidasは、音楽アーティストとして初めてとなるスポンサー契約をRUN-D.M.C. と結んだのだ。以降、adidasとの関係性は20年に及ぶことになる。実はヒップホップ精神として「ラップ」「DJ」「ブレイクダンス」「グラフィティ」という具体的4大要素のほかに「起業精神」というマインド要素がある。RUN-D.M.C. はこの「起業精神」でadidasを自分たちに取り込んでいったのかもしれない。

RUN-D.M.C. は、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持つことになる。RUN-D.M.C.がいなかったら、いまでは当たり前となったadidasファッションは違ったものになっていただろう。

あまりにも早すぎたヒップホップ・レジェンドの終焉。

音楽とファッションで新しい提示をしたRUN-D.M.C.。その終焉はあまりにも衝撃的なものだった。2002年10月30日にDJであるジャムマスターが、頭部を銃撃され死亡するという悲劇に襲われる。享年37歳。3人の中でも一番のサグ的な雰囲気でありながら、高度なDJテクニックを持ち、フロントの2MCを自在に操る抜群のターンテーブル術も持ち合わせていた。またグループの活動以外にも自身のレーベルJMJレコードを立ち上げ、ハードコア・ヒップホップグループのオニクスや50 Centを世に送り出したのもジャムマスターで、ヒップホップ・シーンに数多くのフォロワーを生んできた。ジャムマスターは間違いなくRUN-D.M.C.の重要なキーマンであると同時に、ヒップホップ・シーンに欠かすことのできない人物だったのだ。

RUN-D.M.C. live at Capitol Theatre 1984
※冒頭でジャムマスターのDJプレイを見ることができる。1984年9月シドニーのキャピトルシアターのライブより。

ジャムマスターが亡くなった1週間後にはRunとD.M.C.はRUN-D.M.C.が音楽活動から引退することを発表した。2人は「ロックバンドならドラムを交代するかもしれないが、3人でRUN-D.M.C.だからそれはできない」と発言している。ロックと音楽的な融合を試みたRUN-D.M.C.だったが、ヒップホップ精神のスピリットは変わるものではなかったのだろう。

その後RunとD.M.C.はそれぞれソロアルバムを発表しているが、華やかな表舞台からは退いている。しかし最近では第62回グラミー賞授賞式 (2021)にてエアロスミスのスペシャルライヴに登場し「Walk This Way」を披露、多くの音楽ファンは歓喜に沸いた。

オールドスクール・ヒップホップと呼ばれる時代から、サイクルが早く次々と新しいスタイルが生まれるヒップホップ・シーンの中で常にフロントラインに位置していたRUN-D.M.C.。彼らが確立させた音楽性とファッション性は普遍的で、現代のヒップホップ・アーティストに引き継がれている。
もし、いまもなおRUN-D.M.C.がいたのなら、ヒップホップ・シーンはまた違うものになっていたのだろうか?そんなことに思いを馳せてしまう。

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